経済も生活も自助が出発点

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 週末の日経新聞におもしろい記事があった。 野菜などの栽培で収入を拡大している農家が増えている横で、相変わらずコメ作り助成金に頼ったままの農家との差が開いているらしい。 もっとも日本の農業全体からみると、前者はまだ少数派で、大多数が国の農業保護政策とともにじり貧の道をたどっている。

 新しい日本農業の姿が見え始めている一方、延々と国の補助を求め続ける農家が否応なしに時代の流れから取り残されていく図式なんだろう。

 時代の流れから取り残されていく? ふたつあって、ひとつは国の財政状況からみても農業保護政策をいつまでも続けられない点だ。 もうひとつが農業従事者人口の高齢化で、これからは自然廃業農家が続出することになる。 よほど自助の意識を高めた農業経営を心掛けない限り、どっちみち農家として生き残っていけなくなるわけだ。

 農業を例にとってみたが、これは日本経済全体の問題でもある。 国の予算に頼ることで飯を食っている事業はすべからくジリ貧は免れない。 理由は上に書いた財政のひっ迫状況が、これからますます深刻になっていくことだ。

 そもそも国の助成とか予算は打ち出の小槌ではない。 もともとが税金か借金である。 それを頼りにしていては、不健全な発展しか期待できないところに問題の根がある。

 はっきりいうと、政治家も役人もはたまた予算や補助金を振りかざしている人たちも、そうそう大きな顔してもらいたくはない。 彼らはなんの富も生み出してはいないのだ。 たまたま制度上、税金を徴収して予算を編成したり執行する立場にいるだけである。

 さらには、なんの富も生み出していない人たちに群がって、そのおこぼれに預かろうとする経済団体や法人組織もまた、卑しい生き様といわざるを得ない。

 ちょっと厳しい表現を重ねているが、これが経済や社会の原点でもあるからだ。 そう、人それぞれが自助の努力をベースに堂々と生きていくところに、健全な経済活動も社会も存在する。

 弱者保護とか格差のない社会とかいうのはいいが、誰がそれを推進するのか? 国? 国は税金と借金で運営されている。 税金や国への貸し付けは、誰が担うのか?

 そうなのだ、自助の精神で自分の飯を稼いでいる人たちが一杯いるからこそ、真の意味の弱者保護も可能となるはず。 ところが、日本の現状は国民総困窮化と総じり貧の道を転げ落ちていっているのだ。

 本当は、大幅な規制緩和や民営化と思い切った減税で、国民や企業の自助の精神と進取のアニマルスピリットを高めるのが最優先の政策となってくる。 しかし、日本の指導層は利権や既得権を手放そうとはしないから、なんの行動もしないまま国全体の茹でガエル現象に知らん顔している。

 だからこそ、長期投資なんだ。 そもそもが自助自立の精神で、自分も頑張って働くが自分のお金にも働いてもらうのが、長期投資の基本である。 国がやってくれなくても、われわれの自助の生き方は自分たちで追及していけるはず。