投資運用における倫理観と節度

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 今日はちょっとお堅いテーマと思うなかれ。 すごく大事なことであり、長いめで見ると財産づくりに決定的な差をつけてしまうものなのだから。

 マーケットは、ありとあらゆる価値観と利益目的が好き勝手に入ってきて、すべて時々刻々と変動する価格で決着がつけられていくところ。 したがって、倫理観だとか節度に欠ける投資家が参加してきたとしても、なんら悪いことではない。

 別の見方をすると、多種多様なマーケット参加者が需要と供給とをぶつけ合って、その力の均衡点で価格が形成されていく。 時々刻々と出来上がっていく価格には、物事の善悪とか社会正義といったものはない。 価格は価格である。

 たとえば、年金などの投資家は運用担当者にできるだけ多くの投資リターンを期待する。 欲しいのは運用成績という数字だけだ。 たとえ、その運用者が後は野となれ山となれ式の強引で自分だけ儲ければの無責任な市場参加をしても、そんなもの運用依頼者には関係のないことである。

 よくいわれる大手証券やヘッジファンドによる売り崩しも、彼らそして彼らの顧客は売り崩しで大きな利益を得る。 株価は暴落したかもしれないが、運用成績はたっぷりと叩き出しているから、よくやったと称賛される。

 株式市場やその背後の経済活動に大きなマイナスをもたらしたところで、そんなもの知ったことではない。 運用を委託した投資家顧客たちが稼いだ金で安穏とできれば、それで良し。 非情だろうと強欲だろうと、マーケットで堂々と稼いだ金だ、文句はないだろうとなる。

 お金に色はついていない。 儲けた者、成績を出した人間が勝ちである。 そういってしまうと、その通りと思われるかもしれない。 しかし、大事なことが抜け落ちている。

 投資というものは、プラスサムの世界にある。 自分だけ稼いで後は知らないの刈り取り作業ではなく、みなが得るパイを大きくしていこうとする育てる作業が投資である。

 いくら自分さえ良ければの値ざや稼ぎに徹しようとしても、後は野となれ山となれでは、いずれ稼ぐフィールドが衰退していき自滅するだけのこと。 やはり、経済のパイを大きくしていき、みなが豊かになって喜んでもらってこそ、大きなリターンを手にすることができるというもの。

 みなが豊かになるには、お金のまわし方にも倫理観や節度といったものがなければならない。 そんなこと言っていると、マーケットでは青臭く書生っぽく思われるかもしれないが、長いめで勝ち残っているのは世の中に支持される投資家である。

 いつの時代でも、プラスサムの投資家が生き残る、それも市場の掟である。