みな一緒でなければの甘えは捨てよう

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 日本経済が高度成長していた頃までは、経済のパイが年々拡大し続けていたから、その分配が国民のほとんどに広くいきわたった。 仕事はいくらでも生まれたし、まじめに働きさえすれば、それなりに生きていけた。

 いってみれば、落ちこぼれというものが存在しない、世界でも極めてまれな社会が出来上がったわけだ。 落ちこぼれのない社会では、国民のみなが安心して暮らしていける。 それは素晴らしいことである。 

 同時に日本では、世界的にみても貧富の格差が異常に小さな社会というものを実現した。 たとえば、企業の社長と最低賃金労働者との給与差が驚くほどに小さい。 海外の常識からみれば、その差は50倍とか100倍にもなるのに、日本では10倍前後でしかない。 見事なまでに平等化社会である。

 理想に近い社会が生まれたわけだが、その実あちこちで理想が蝕まれていっている。 というか、危険なまでに弊害が蔓延している。 いくつか例をあげてみよう。

 バブル華やかりし頃、土地など不動産を持っている者と持たざる者との間で保有資産の格差が大きく広がった。 それをみて、多くの個人や企業が我も我もと土地や不動産の取得に走ったため、バブルを異常なまでに膨らませた。 その後始末に、巨額の国費が投入され国の借金は天文学的に膨れ上がった。 また、バブルに踊り狂った金融機関や企業救済のための超低金利政策で、家計は毎年20兆円強の利子収入を奪われ続けてている。

 ワーキングプアという社会問題も大きくなってきた。 落ちこぼれのない平等社会のはずなのに、その日の食にも事欠く人々や家計が社会の底辺で増え続けているのだ。 その横で、生活保護の不正受給が後を絶たない。

 平等意識が強くなりすぎて、やたらと競争を制限する風潮が社会の活力を奪い続けている。 小学校の運動会で、みな手をつないで一緒にゴールを切りましょうなんて、お笑いもいいところ。 そんな風潮が日本社会にはびこっており、進取の気質に富む者のやる気を削ぐ一方で、与えられるのを待つだけのダラケ人間を増殖するばかりとなっている。 現に、富を創出する個人や企業の事業意欲に対しては、高い税金を課すことで悪しき平等を徹底しているではないか。

 日本人は働きすぎだからと、1980年代からずっと ”そんなに働くな、もっと休みを取れ” を、国を挙げて指導してきている。 過労死に至るほどの長時間労働を強要するのは論外だが、どれだけ働くかは個々人の自由。 それを一律に働くなでは、逆平等もいいところ。 世界の歴史をひも解いても、国民が働かなくなって栄えた国などどこにもないというのに、日本はもう30年以上にわたって国民をダラケさせる方向に仕向けているのだ。

 数え上げればきりがない。 はっきりしているのは、そんな自堕落な社会構造に甘えているのは個々人の自由だが、社会や経済の活力が削ぎ落とされていった先の結果は、われわれに降りかかってくるということ。 それに対し、だれも責任を取ってくれないということだ。

 世界経済のグローバル化は止めようがない。 そこには競争が日常茶飯事となっており、力の差で取り分の大小が発生するのは当たり前のこと。 厳しい競争社会であるからこそ、人間力や品格の問題ではあるが、強者が弱者へ富を分配するといった価値観も自然発生する。

 そういったグローバル社会を主体的に生きていくには、自助意識を高めて仕事に励むことだ。 そして、長期投資で自分のお金にも働いてもらうことだろう。