資本の論理 vs 長期投資家

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 よく資本の論理が語られるが、結構あいまいに資本の論理という言葉が使われている。 たとえば、企業は株主資本利益率 (ROE) を高めよとか、自社株買いや配当を積極的に実施して株主に還元すべきだという。

 その中には、とにかく企業に吐き出させて株主の手取り額を最大化させようという投資家も多い。 採れるものはとことん吸い上げて、後は ”野となれ山となれで” 知らないよ、という連中もいる。 いわゆる、アクティビストといわれる投資家たちだ。

 これも資本の論理である。 いま株主である自分たちの利益最大化しか眼中になく、その企業から搾り取ることだけが目的。 その企業の社会的使命や永続的な発展など、どうでもいいと考える。 それでも、株主権をどう発揮するかは、彼らの自由である。

 われわれ長期投資家からみれば、真逆の価値観である。 やはり企業には、積極的な拡大投資で雇用を増やし、研究開発も怠らず税金もしっかり払うなど、できるだけ社会全体の富の拡大。つまり付加価値を高めてもらいたいもの。 それが企業の社会的な存在理由であり、長期投資家の応援価値と考える。

 企業の永続的な発展、それも質の高い成長は、社会にとっても財産である。 社会資本の健全な発展ともいえる。 それをしっかり下支えしていくのが長期投資家の役割である。 もちろん、経済のパイが拡大するところからの分配で、十分なる投資リターンを手にすることができる。

 こういった長期投資家の論理には、社会との同調性がきわめて強いといって良い。 ところが、短期の利益搾取に余念のないアクティビスト達とは、そう遠くないところに年金など機関投資家がいるのだ。 彼らの運用成績を高めなければの意識が、往々にして今期来期の投資リターンの最大化に走りがちとなる。

 早い話、年金など機関投資家の運用者たちは、企業の四半期決算の数字が予想を上回った、下回ったで過剰ともいえる反応を示す。 そんな短期の業績動向に年金など大株主がシャカリキとなって追いまくったら、企業はおちおちと将来に向けての投資などできたものではない。 社会的な責任など果たしようがない。

 そういった年金資金の出し手は、われわれ一般生活者である。 しかし、年金資金の運用は目先の利益追求に汲々としている。 この矛盾に、誰も正面から異議を唱えられないのが、世界の年金運用の現状である。

 しかし、おかしいものはおかしい。 われわれ長期投資家は生活者としての論理、つまりどんな社会をつくっていくのかを徹底的に追及していこう。 運用成績は企業を応援すべく、皆が売って株価がやたら安いところを、断固として買っておけば後から必ずついてくる。 それよりなにより、応援すべき企業の社会における価値をしっかり見ていくことだ。