昔から金融の機能は経済活動から、社会生活に至るまで、さまざまな利便性を提供してくれている。
身近なところでいえば、住宅ローンがある。 戸建てやマンションを手に入れたいと思っても、金額がやたらと大きい。
それだけのお金を準備するとなると、20~40年ぐらいかけて資金を積み立てる必要がある。
ということは、人生の後半になって、ようやくマイホームを手に入れることになる。 それでは、なんのためのマイホームかだ。
そこに、住宅ローンという金融サービスがあれば、人生の早い段階でマイホームを入手し、ゆっくりとローンを支払っていける。
もちろん、金利負担との相談は残るが、金融サービスでもって時間を買うことができる。
このように、いろいろな金融サービスがあると、それを利用する人にとっては実にありがたいものである。
ところが、金融が実体経済や人々の生活との接点を超えて、独り歩きを始めると実体が見えないだけに、やっかいなことになる。
早い話、金融は売ったり買ったりの資金の付け替えであるが、実体を伴わなくても構わない。
そこに信用というものを介在させれば、いくらでも資金の付け替えを進められる。
問題は、その信用である。 実体のある取引をベースとした信用であれば、かなりの安心感がある。
一方、信用そのものが取引のベースとなってくるにしたがって、金融の独り歩きのスピードが高まる。
たとえば、スワップ取引といって金融契約を売ったり買ったりする。
スワップ取引で、売る方は現金を手にし、買う方は金利などの収入を期待できる。
お互いに結構なことだが、もともとの金融取引そのものが、果たして確りしたものかどうか?
そのあたりが、金融バブルが膨れ上がっていく過程では、どんどん怪しくなっていく。
リーマンショックの際も、すさまじい勢いで粗製乱造された証券化商品が吹き飛んだ。
実体があるようでない証券化商品を、実体があるはずだで突っ走っていって、なにもないことに気づいて一斉の売りとなった。
ここへきて、アルケゴスとかの問題が世界の金融市場で不安視されだしているが、さてどうなることやら。
実態から大きく乖離して金融取引が膨れ上がっていくのをバブルというが、これからいろいろ出てくるのだろう。