投資運用とは、安いところで買っておいて、高くなるのを待って利益確定するもの。
ということは、高くなるまで待つ、すなわちある程度の時間を考慮して、待つという作業が欠かせない。
われわれ本格派の長期投資家からすると、「10年ぐらいの時間軸で、2倍になればいいや」で構える。
そのペースでいっても、年率7%ぐらいの運用成績となってくれるので、もう十分もいいところ。
ところが機関投資家の運用現場では、毎年あるいは四半期ごとの成績評価に追いまくられる。
となると、日々いつ何時でも成績を高めるべく、マーケットでの価格変動に立ち向かっていかなければならない。
そのマーケットでの価格変動だが、多くの投資家たちの買ったり売ったりが合成されて、上にも下へも転がっていく。
そういった変転きわまりない価格変動を相手にして、彼らは利ザヤを稼いでいこうとする。
その作業をディーリングと呼ぶが、今日明日の価格変動に対する読みと、動物的な瞬発力と柔軟な対応力が問われる。
そうなってくると、高くなるまでのんびり待つという投資運用の世界からは遠く離れていってしまう。
また長期的な価値の高まりを追い求めるといった、投資に欠かせないリサーチなど、二の次三の次となっていく。
それが、世界の大半の機関投資家における運用現場の姿である。
そんな機関投資家たちが、巨額の運用資金を背景に大株主として、株主総会などで企業の経営に影響を及ぼしている。
たとえば、議決権行使やら、アクティビスト的な要求など、目的は如何に自分たちの成績につなげるかだ。
その一方で、彼らは異口同音に、ESG(環境、社会、企業統治)やSDGs(持続性ある発展への指針)を唱える。
あるいは、フィデュ―シャル・デューティ―(受託者責任)を口々にいっている。
これは、大きな矛盾であり、茶番でもある。 ESGにしてもSDGsにしても、将来社会への責任である。
その責任意識を全うしていってこそ、フィデュ-シャル・デューティである。
日々の成績を追いかけるディーリング運用でもって、一体でどれだけ将来への責任を果たしていけるのか。
それどころか、彼らの毎日の成績追いかけドッタンバッタンは、来年からのトランプ政権による場当たり的な政治に、ピッタリはまる。
それに対し、世界的に根強いインフレ圧力と金利上昇という経済合理性の刃が、手ぐすね引いて待っている。
金融マーケットはもちろん、世界経済は相当に荒れた展開となっていこう。
われわれ本格派の長期投資家からすると、大河の滔々たる流れに対する水面の大荒れにすぎないが。