経済活動は需要と供給の力関係でもって折り合いをつけながら、時々刻々と動いている。
その時々の需要と供給の力関係が均衡するところで価格が形成され、その価格が情報となって次なる経済活動を促すことになる。
そういった需要と供給のぶつかり合いを、より多くの参加者でもって公開の場で繰り広げさせよう。
さすれば、幅広い裾野からの不特定多数の参加者によって、より客観性の高い価格形成が期待できるはず。
それがマーケットというものであって、経済活動の起点ともなるわけで存在意義はきわめて大きい。
それが故に、古今東西どんな時でもマーケットが存在してきたし、重要な役割を果たしてきたわけだ。
マーケットでの価格形成だが、次なる経済活動を促すだけではない。 その時々の社会全体の価値観を表してもいるのだ。
なにしろ、その時々の社会全体の需要と供給が集まって、価格が形成されているのだから、社会が認める価値といってよい。
ところがだ、この数10年間、世界は金融緩和と大量の資金供給でもって経済を成長させようと躍起になってきた。
マネーの大量供給によって経済を動かそうとしてきたから、たしかに金融マーケットは大活況を続けている。
一方、先進国を中心にして経済成長は期待通りには運んでいない。 むしろ、一般生活者の低所得化が進んでいる。
その結果、人々の生活をベースとした実体経済と、大量の資金供給で宙を舞っている金融マーケットとのギャップは、広がるばかりとなっている。
その金融マーケットで形成されている債券や株価などの価格だが、バブル化の様相をどんどん高めている。
ということは、いま債券や株式市場で形成されている価格は、一体どこまで社会全体の価値観を反映させているか、はなはだ疑問である。
まさに、表題にあげた、価値観が宙を舞っているという図式だ。 最近のNY株式市場をみるに、糸の切れた凧のように舞い上がっている。
それでも年金はじめ世界の運用は糸の切れた凧を追っかけては、成績をあげようと躍起になっているのだ。
とんでもなく恐ろしいマネーゲームをやっていると、誰もさほど警戒していない。
米FRBはじめ、ヨーロッパ中央銀行や日銀による大量の資金供給が永久に続くものと信じ込んでいるのか。
われわれ長期投資家は、いつでも常識を大事にしてものごとを考える。
どうみても、これはバブルだと判断し、バブル崩壊に焦点をあてた行動に徹するに限る。