年金をはじめとして、機関投資家の運用をみるに、成績を追い求めるあまり無機質なものになってしまっている。
債券投資なら、計算づくで利回りを稼ごうとするから、無機質な運用となってもまだいい。
それでも、かつてのように債券投資家が国の金利政策に対し、買う買わないといった意思表示をすることはできる。
運用する立場から、経済合理性をベースとした投資判断でもって、国の政策に是々非々で対応するわけだ。
たとえば、ゼロ金利政策を唯々諾々と受け入れるのではなく、運用責任を果たすべくそれなりの利回りを求めるのが、機関投資家の矜持だったはず。
そのあたり、最近は運用難という一言でもって、ジャンク債でもなんでも食いつく、単なる運用マシーンと成り下がっている。
一方、株式投資ではインデックスやインデックスの先物をディーリング売買するのが、機関投資家運用の中心的存在となってしまっている。
インデックスは平均株価であり、玉石混交の企業をひとまとめにしたパッケージである。
そのパッケージを値幅取りのディーリング運用の対象とし、それをもって株式投資としているわけだ。
個々の企業の事業形態や業績動向などはどうでもいい。 インデックスというパッケージ商品を売買し、その値幅を取っていこうとする。
これなんぞ、典型的な無機質運用である。 インデックスの価格が上下変動するのを追いかけては、その値幅取りを狙う。
株式投資はもともと、将来の社会をつくっていくべく、同じ方向で頑張っている企業を応援することである。
そこには当然のことながら、どんな社会にしていくかの夢や想い、そして意志が働いてしかるべきである。
出来上がっていく社会に住むのは自分たちであり、子供たちである。 無機質どころの話ではない。
そう、きわめて人間的な投資行動あってしかるべきである。 それが株式投資のはずである。
いずれ来る金融バブル崩壊では、インデックスなどパッケージ運用は玉石混交の投資をしているが故に、成績はズタズタとなって低位でのたうち回ることになろう。
その横で、われわれの本格的な長期投資がいち早く低迷を抜け出すことで、世の脚光を浴びる。
それがそのまま、人間的な株式投資への回帰となっていこう。