一度、健全で力強い経済って、どんなものか考えてみよう。
それと比較すれば、世界経済の現状がどれほど歪んだものか、即座に理解できるというもの。
健全なる経済の原点は、一人ひとりが生きていく糧を自分で手にしていこうとする、自助の意識と精神である。
その昔は、狩猟採集に代表されるように自給自足が当たり前だった。
大型動物を狩ったり、農耕作業が本格化するにつれて、集団での自給自足が定着していった。
物々交換による分業や貨幣の役割が高まっていくとともに、経済活動というものが世界各地で自然発生していった。
自給自足で成り立っていた生活から、モノや貨幣の交換を通した経済圏での生活へのシフトは、地域差はあるがグングン加速していった。
経済活動の内容も従前からの農耕中心から、商工業のウエイト増加と金融機能の発達でもって、格段と幅を広げていった。
つれて、経済圏の拡大による競争の激化や規模の利益追求といったものが一般化していった。
会社形態の組織活動も急速に整備充実していき、その延長線上で資本主義という概念が定着していくことになる。
会社組織によるビジネス活動が拡大発展していき、資本と経営の分離が進んだものの、経済活動の原点である自助の精神は不変である。
たとえば銀行。 個人銀行家による資本投下は、すべて彼自身のリスク許容度とバランス感覚でもって、自己コントロールしていたものだ。
企業というものも、船団を3年~8年といった長期航海に送り出し、無事に帰港できた数少ない船の積み荷を分配するもので、リスクを取るのが当たり前だった。
ところが現在では、国や中央銀行が景気拡大にテコ入れしたり、失業対策という名目で企業の淘汰を阻止したりしている。
金融緩和と大量の資金供給でもって、経済活動を活発化させようとするが、それはそのまま企業の自助意識やリスク感覚を弛緩させるだけとなっている。
個々人も、国の社会保障や医療健康そして失業対策などに甘えるのが当たり前となってしまった。
つまり、経済活動の根っこで自助自立の意識と気概が薄れ、国頼みの他力本願が深く浸み込んで来ているのだ。
ここで考えたいのは、国や中央銀行の力も無限ではないということだ。 国が借金を積み上げるのも、中央銀行が資金をばら撒くのも限界がある。
限界に達したら、どうなるのか? 国頼みの他力本願は吹っ飛び、国民の多くは自分で生きていく道端へ放り出される。
そうなると頼れるものは、経済活動の原点である自助自立しかないことを、否応なしで思い知る。
皆さんも、一人ひとり自助の立場に戻って、何となにはこのまま続けられるが、なには当てにならないと選り分けてみましょう。
その上で、即座に「あるべき方向での生き方」へ、生活も財産もシフトさせよう。