志と温かい思いのある運用者、いまは少数派でも

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 運用ビジネスとは、投資家顧客の資産形成をお手伝いするもの。 投資家顧客といっても、富裕層から一般生活者まで千差万別である。 もちろん、年金資金も入ってくる。

 また、資産形成も長期の財産づくりを願うものもあれば、とにかくお金が殖えればいいとする金権亡者のお先棒かつぎまで、多種多様である。

 そこで問われれのが、どんな投資家顧客のためにどんな運用でお手伝いするか、運用者の職業意識と倫理観さらには人生哲学である。

 ところが現実は、たまたま運用という仕事が好きで、それなりの給料をもらえれば良しとする運用者がほとんど。 好きな運用ができるのなら、どんな顧客資金でも引き受けます、もしくはどんな運用会社でも構いませんといった連中だ。

 やっかいなことに、彼らには運用成績というものがついてまわる。 どんな運用をしても構わない、とにかく良い成績数字を叩き出すこと。

 それでもって、より良い条件で別の運用会社から引っ張られるのが、彼らにとっては名誉や勲章であり生きがいなのだ。 もちろん、より高い給料もついてくる。

 世の中の評価でも、成績が良くて高給で引っ張られる運用者こそ立派とされる。 彼がどんな運用で高い成績を叩き出してきたのかといった、運用の内容など細かいことは問われない。

 そういった風潮から、どんなしわ寄せが経済や社会にもたらしているのか。 この長期投資家日記を読んでくださる皆さんだけでなく、できるだけ多くの人々を巻き込んでしっかり考える必要がある。

 好例が年金の運用である。 年金サイドはより高い運用成績を求めて、多くの運用者たちに運用資金を預ける。 それぞれ担当する分野で最大の成績をあげなさい、成績によってさらなる運用資金の積み増しもありますよといって。

 年金が求めるのは、各担当分野でより高い運用成績という数字である。 どんな運用をしているかは問わない、とにかく数字でもって運用責任を果たしなさいという。

 最大のスポンサーである年金が、とにもかくにも成績という数字を求めるのだ。 運用サイドからすれば、より高い成績数字を叩き出す運用手法なり商品を開発して、より多くの運用資金に預かろうとして当然のこと。

 それが、ヘッジファンドの跋扈となったり、オプションや先物取引の高度利用、証券化商品やデリバティブといわれる金融派生商品などがマーケットにあふれることにつながった。 また、1秒間に1000回を超高速売買なども一般化してきた。

 各運用担当者がより高い成績数字を追い求めるのは、彼らの仕事であり飯のタネ。 しかし、それは往々にして部分最適の追求になり、全体の調和というか最適化とは、かけ離れたものになってしまう。

 その結果が、リーマンショックを引き金とする金融バブルの崩壊であったはず。 世界経済はズタズタにされたし、いまだその後始末で一般生活者に大きなしわ寄せをもたらしているではないか。

 ところがだ、世界の運用現場では相も変わらず成績数字を追い求めて、部分最適に走っている。 国債やら不動産やら、いろんな分野で次のバブルをせっせと醸成しているのだ。

 それに対し、年金運用というか機関投資家運用といった巨大メカニズムは、なんの反省もなく学習効果もなしのまま。 そして、新たなるしわ寄せを経済や生活者にもたらそうとしている。

 おかしな話である。 年金を積み立てている一般生活者の経済基盤をガタガタにしかねない、部分最適の運用を一般生活者の年金が強いているのだ。 現代の巨大パラドックス(矛盾)である。

 この巨大バラドックスに、われわれ長期投資家は真っ向から立ち向かおう。 いまは少数派でも、大きな歴史の流れからみれば必ず勝者となろう。