意思をもって、お金に働いてもらう

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世の一般的な投資は、ただただ儲けたい、あるいは儲かりそうだで、お金を投入する。

それは博打と同じで、当ったり、外れたりとなるのを覚悟の上で、お金を張るわけだ。

機関投資家などは、当たりの確率を高めようと理論に走ったり、高度な運用テクニックを駆使したりする。

といっても、それらのどれもが気休め程度にすぎない。 これは絶対だというものには、いまだたどり着いていない。

どうしても勝ち続けたいのなら、無尽蔵の資金を用意して、買って買いまくればいい。

ちょうど、日銀が異次元の金融緩和だといって、2013年から国債を買いまくったのと同じだ。

総発行量の53%まで買い上げたわけで、市場に流通している国債の過半を買い上げた。

もう売りはほとんど出てこない。 となれば、国債の値下がり懸念なく、日銀は安心して国債を保有し続けられる。

反面、日銀の財務規模は日本の国内総生産(GDP) の1.3倍にも肥大化し、それをどうスリム化させるかは難問である。

下手に売ろうとしたら、国債価格の暴落を招き、国債の流通利回り、すなわち市場金利は急上昇する。

つまり、総発行量の53%もの国債を買い上げた日銀は、保有国債の価格下落で巨額の評価損を抱え込む。

そう、日銀は博打に負けるわけだ。 それが嫌なら、保有している国債の満期償還を待つしかない。

といっても、満期償還する資金は、またぞろ国債発行に頼るのか? それを、日銀は買うのか?

ともあれ、当たりはずれが常についてまわる博打などに、資産形成をゆだねるわけにはいかない。

われわれ本格派の長期投資家は、いつでもお金に働いてもらおうとする。

大事な資金だ、しっかり汗を流してもらって、実りある働きをしてもらわなければならない。

そのためには、どういった方向で、どんな実りを期待して働いてもらうのかだ。

そこが、はっきりしていなければ、投資どころか博打に成り下がってしまう。

そう、投資にはどんな将来社会をつくっていくのかの明確な方向性と、強い意思が欠かせないのだ。

そこのところを抑えた上で、資金を投入するタイミングを見さだめる。

そのタイミングも、世の中がありがとうといって喜んでくれるような時だ。

でなければ、お金に働いてもらったことにはならない。 それが、投資というものだ。