先週、クレディセゾンによる子会社セゾン投信の中野会長罷免の報道について書いた。
報道によれば、顧客口座や預かり資産の増加スピードが親会社の期待外れだったとのこと。
それは、金融ビジネス的な発想であって、資産運用ビジネスにはまったくそぐわない。
そもそも運用会社に対し顧客が抱く期待も時間軸も、証券など金融ビジネスにおける顧客とは違う。
証券業など金融ビジネスであれば、儲かった損したの繰り返しが常態であって、顧客も納得済みである。
だから、顧客口座や預かり資産をもっともっと大きくしたいと、いくら経営意欲を高めても構わない。
また、より多くのビジネスチャンスにつなげるべく、顧客サービスの幅や内容を拡充するスピード感を競う。
それでもって、ビジネス規模をどんどん拡大していくわけだ。 まさに、攻めあるのみの世界である。
そういった金融ビジネスの方向へ、セゾン投信を引きずり込んでしまおうとしているわけだ。
これは、クレディセゾンが資本の論理を押し通すだけだといって、片づけられる軽い問題ではない。
大体からして、これまでの16年間で集まった投資家顧客に対する運用会社としての責任を、一体どうするのか?
そのあたりをないがしろにして、セゾン投信も資産運用会社としての社会的責任をどう果たすというのか?
資産運用会社というものは、大事な虎の子を預けてくださるお客様から、大きな責任をいただく。
セゾン投信の場合、15万人にのぼる投資家顧客の期待と信頼にこたえる責任が、もう発生してしまっている。
それを無視して、資本の論理を押し通して良いものだろうか? 社会的にも道義的にも許されるものではない。
資産運用ビジネスでは当然のことだが、実績でもって投資家顧客の信頼にこたえる責任がついて回る。
運用責任という観点からは、自分とこが得意とする運用に沿った方向でのみ顧客資金を集めることだ。
間違えても、運用資金獲得の競争にのめり込んで、短期でも長期でもどんな運用資金でも歓迎とやってはならない。
そんな雑多の顧客資金を預かって、ダボハゼ的な運用に走っては、まともな成績など残せるわけがない。
また時々刻々の勝負である金融ビジネスと違って、運用ビジネスでは実績が積み上がるまでの時間軸が長い。
その時間軸に耐えられるかは、ひとえに運用会社がどれだけの安心感と信頼をいただいているかだ。
このような資産運用ビジネスとしての特徴は、一般の金融ビジネスとは相容れぬものである。