まじめな働き蜂を自認してきた日本人だが、お金に働いてもらうということには不慣れである。
昔から、お金のことを語るのは賤しいとか、守銭奴と蔑む声をよく聞かされてきたものだ。
それが最近は、投資教育や金銭教育の必要性をあちこちで語られるようになってきた。
守銭奴とかいった蔑視から、子どものうちから金銭教育をといった180度転換は、いかにも日本人らしい。
残念ながら、どちらも美しくない。 昔、お金のことを語るのは賤しいとか言っていたのは、はっきりいって心身ともに貧しい人たちだ。
陰徳とか篤志家という言葉が残されているように、賤しいとか守銭奴と蔑む次元を超えた生き様の美しい日本人が、いくらでもいた。
いま、お金お金といっている人たちの多くは、将来が不安とか自分のことばかり。
自分さえ安泰であればといった、狭量な投資教育も金銭教育も美しくない。 ましてや、子どもたちになんて言ってもらいたくない。
お金をまわしていくことで、経済活動は活力を注入される。 多くの人々の生活も成り立っていく。
その結果として、国民全体の所得は増加し、また投資のリターンとなって戻ってくる。
そこで問われるのは、どういった方向でお金をまわしていくかだ。 当然、社会全体の幸せを願う意識と、主体的当事者としての倫理観や美意識といったものが前面に出てくる。
でないと、いくら金銭的に豊かになっても、自分自分でギスギスした殺伐な社会が出来上がっていくだけである。
そんな社会で育っていく子供たちのことを想像するだけでも、ぞっとする。 まったく、瑞々しくない。
それは、長期投資の先とはほど遠い、かつ次元の低い世界観であって、われわれの望むところではない。
ずっと考えてきたことだが、ようやく考えがまとまってきた。 これからは、篤志家教育という言葉をあちこちで提案していこうと思う。
生活者株主に生活者投資家、それに次いで篤志家教育だ。