決められない、変えられない日本人

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よく、日本人は何かを目標として突っ走るときは強いが、自ら目標を設定するのは苦手といわれる。

その典型例が、明治のころ「欧米列強の植民地にはならない、それには殖産興業と富国強兵だ」で、国民が一丸となった。

戦後の復興期には、「欧米に追いつけ、追い越せ」をスローガンに、官民が一体となってガムシャラに働いた。

ところが、1980年代も半ばごろから「目標としてきた欧米を追い越した」を実感するにつれて、目標喪失感が日本を覆うようになってきた。

これといって具体的な目標がなくなるや、現状肯定というか現状に甘んじるムードが日本全体に浸透していった。

そうなると、「このままで良いじゃないか、なんとかなっているのだし」といった考え方や価値観が支配的となっていく。

一度、「このままで良いのでは、なんとかなっている」が支配的になるや、その現状を変えるには膨大なエネルギーが必要となる。

逆に、決められない日本人、なにも変えれられない日本人といった像が、くっきりと浮かび上がってくる。

ところで、よくよく考えてみるに、日本人は目標設定が苦手というわけではない。

70年代の公害問題が好例だが、いざ国家目標が設定されるや、日本人はすさまじいエネルギーを発揮する。

あの時は、あまりに酷い公害問題に「なんとかしなければ」の民意が高じてきて、それが政策に反映された。

それでもって、それこそ官民一体となって「現状を変えよう」が動き出したのだ。

では、いま民意が高じ国全体を動き出させようとするだけの社会問題はないのか?

いくらでもある。 前々からの医療や年金の保険制度をはじめ、温暖化抑止とか脱炭素とか、目白押しである。

しかるに、問題意識は高じているのに、抜本的に改革しようというところまでは至らない。

原因は、ふたつだ。 ひとつは、強力な政治指導力の欠如であって、政治生命を賭けて問題に取り組むだけの迫力ある政治家の登場を待ちたい。

もうひとつは、国民全般に「まだ、なんとかなる」とのんびりしていることだ。

こちらは、お尻に火がつかないと動かないのかもしれない。 でも、日本の現状をみるに、ドスンと来るのはそう遠くないと思われる。

政治を待つのか、ドスンと来るのを待つのか? どちらにしても、気がついた人たちから動き出すに如かずである。

ともあれ、変われない日本人のままで「ゆでガエル」だけにはならないようにしよう。