経済というのは、もともと経世済民の略語である。 世を平らかにして人々の生活が成り立つようにするといった意味である。
金曜日から週末にかけて北京に行ってきた。 万里の長城や紫禁城観光もあるが、できるだけあちこちを歩き回って、人々の生活ぶりを見てみたいというのが主たる目的だった。
繁華街のみならず、一般の大通りや商店街も歩いたが、とりわけ昨日の天壇公園が印象的だった。 休日を北京の人々はどう過ごすのか見てみたかったので、行って良かった。 いろいろ考えさせられた。
紫禁城より広いといわれる途方もなくドデカイ公園に、その広さを感じないほど多くの北京市民が休日を楽しんでいた。 散歩する人がぞろぞろする横で、ベンチや道端で花札やカードに興じるグループもいれば、歌ったり踊ったりで賑やかなこと甚だしい。
天壇公園を観光するグループも一杯いたが、それよりはるかに多くの市民たちが思い思いの休日を過ごしていた。 どの人もそこそこの生活ができている様子で、まさに経世済民を地でいっていると感じさせられた。
これは北京市民のほんの一端であり、中国13億5千万人の生活はまだまだそこまで余裕はないのかもしれない。 それでも、中国全土の人々がこんな生活をしたいと願うモデルとなるのだろうと感じさせられた。
もちろん、共産党による一党独裁がいいとは思えないし、言論統制や指導層の腐敗といった問題も座視できない。 それでも、人々が食っていけるというのは政治の原点である。
日曜日を楽しんでいる人々の姿や笑い声を見るに、この平和な生活を守りたいと願う庶民意識は、万国共通のものなんだと改めて思わざるを得ない。
ひるがえって、ひとたび政治や宗教はたまた国家の論理が前面に出るや、いろいろややこしくなる。 この辺り、世界中の庶民がもっともっと前面に出るべきなんだろう。
そこでの共通語は文化とか芸術・スポーツといったものの出番となるはず。