日本はもちろんだが、世界的にみても本来の資産形成と現状とのギャップが大いに気になる。
現状とのギャップ? そう、これが資産形成だとされているものが、どうにも薄っぺらなのだ。
それは年金運用の現場でも、個人の資産形成運用においても指摘できるところである。
どういうことか? 機関投資家の運用はもちろん個人の場合も、これこれの成績が上がっているをもって良しとしている。
成績といっても、これこれの数字が上がっているというだけの話。
つまりは、マーケット動向の中で、どう上手く立ち回って、そこそこの数字を叩き出していくかだ。
そういった数字の積み上がりをもって、資産形成が進んでいると年金サイドも個人も信じ込んでいるわけだ。
そのマーケットだが、歴史に例をみない世界的なカネ余りによって、この40年余りずっと上昇を続けてきた。
いってみれば、砂上の楼閣とでもいえる資産形成を、年金も個人もひたすら進めてきたことになる。
ところが、世界の現実をみるに、一部の高所得層だけがどんどん豊かになってきただけのこと。
多くの人々はそれほど豊かになっていない。 米国においてでさえもそうだが、人々の低所得化や貧困化が進んでいる。
現に、生活に苦しむ人々や食っていけなくなった人々の声が、世界中あちこちで高まってきて地政学リスクとなっている。
それが、根の深いインフレ圧力となってきているし、それに伴って金利は上昇しだした。
その一方で、地域紛争の頻発や権威主義国家の台頭を許し、トランプのような一国主義を出現させている。
どれもこれも、カネ膨れした世界の金融マーケットにとってはマイナス要因である。
大きな歪みを内包しながらも上昇トレンドを描いてきた世界のマーケットだが、もういつ大崩れに入ってもおかしくない。
となると、成績という数字の積み上がりをもって資産形成が進んできたというのも、それって何だったのかだ。
つまりは、カネ余りによる張りぼての経済成長を象徴してきた金融マーケットでの成績数字だ。
どこかで、成績数字とやらがズタズタになって、これまで追いかけてきた資産形成は一体なんだったかと思い知らされる。
同時に、そうなった時にずっしりと重みを発揮する本当の資産形成って、どういうものかがはっきりする。
まさに、われわれ本格派の長期投資家が、いぶし銀のような存在価値を発揮する出番である。
つまりは、実体経済から一歩も離れずに、社会的な価値の高まりを追い続けての資産形成だ。