愚者は自分の経験に頼り、賢者は歴史に学ぶ。 ビスマルクをはじめとして、多くの人が同じような言葉を残している。
そういうことなんだろうが、こと長期投資に限っていえば、自分の48年を超す経験はそれなりの妥当性を持つと思う。
その根拠は、この40年ほどの間に、世界の運用が激変した。 まともな投資運用が隅へ押しやられ、ディーリング運用が主体となってしまった。
そして、世界中の年金やら機関投資家の運用資金の大半を吸い込んできたディーリング運用が、徐々に限界を見せ始めている。
1秒間に1000回を超す高速売買やら、高度なコンピュータ運用やらで、ディーリング運用は最高度に磨き上げられた。
それが、どうやら行き着くところまで来たようだ。 さっぱり投資収益が上がらなくなったのだ。
ゼロ金利やマイナス金利で、利ザヤそのものが薄くなっているというだけの問題ではない。
世界中の機関投資家の巨額資金が同時に、同じ方向で売買益を稼ごうとするのだ。 物理的な限界にぶち当たって当然である。
どれだけ高度に数式やらコンピュータを活用しようと、ディーリング運用では思うように利ザヤを抜けなくなってきているのだ。
運用ビジネスで収益が上がらなくなると、集まっていたマネーは引き始める。 はじめは小川のようにちょろちょろと、そのうち激流となって外洋へ流れ出す。
そこからだ、経験が生きてくるのは。 高度に数式やらコンピュータを駆使して売買益を積み重ねるディーリング運用が限界となると、今度はどんな運用に活路を見い出すのか?
投資運用の原点に戻って考えると簡単。 先ずは人々の生活があって、それが集まって経済となる。
経済を拡大発展させていくには、お金を事業投資にまわすことが不可欠。 それをサポートするのが投資運用である。
これが経済活動の中核であり、ディーリング運用はその周辺部に位置するだけのもの。
かりに周辺部が腐ってきたとしても一向に構わない。 中身、つまり世界経済の拡大再生産にお金をまわす運用は、ビクともしない。
そう、われわれの長期投資に世界のトレンドが戻ってくる。 つまり、投資運用の原点に戻るだけのこと。
1970年代前半までは、長い運用の歴史で、われわれのような長期投資が当たり前だった。
たまたま、この40年近く投資運用の短期化とディーリング化が進んだだけ。 決して、それが投資運用の王道ではないということが、これから証明されていく。