英国のサッチャー改革も米国のレーガノミクスも、大きな成果を上げたが最後の部分は残念である。
1970年代から80年代半ばまで、英国病も米国の落ち込みぶりもひどく、英米の経済は悲惨をきわめた。
そこに活を入れたのは、79年に登場したサッチャー首相であり、81年からのレーガン大統領である。
お二人が政権を担っていた当時も、その後もいろいろ批判的な声が後を断たない。
しかし、誰がなんといおうと不治の病といわれた英国病を克服し、強いアメリカを復活させたのは、紛れもなくお二人の功績である。
両政権とも、就任して3~4年後からは経済を年3%を超す成長路線に乗せ、16年余に及ぶ繁栄をもたらした。
お二人の政策や政権運営を批判する人達でさえも、国民全体の所得が格段に膨れ上がった恩恵に浴しているのは事実。
素晴らしい功績の中でどうにも残念なのは、金融を野放しで拡大させて、今日の金融至上主義に道を開いたことだ。
長らく低迷していた英米を尻目に、日本など世界経済は80年代90年代と急成長を続けていた。
そういった世界の旺盛な成長力に潤滑油の機能を提供して、英国もアメリカも経済成長のエンジンの一つとした。
いわゆるアングロサクソン的な市場主義で、ロンドンやニューヨークが世界の金融センターになっていったわけだ。
そこまでは良かった。 しかし、金融センター機能のあまりの成功に、両国経済とも金融に傾斜しすぎた。
金融を経済活動の潤滑油として機能させるに留まらず、飯のタネにしてやれという流れが強まっていったのだ。
時間とコストがかかる地道な産業育成よりも、世界の金融センターとしての地盤強化の方が手っ取り早い。
かくして、英米とも金融ビジネスを経済の屋台骨とする方向に突っ走った。 その挙げ句に、2000年代半ばの金融バブルをもたらした。
金融バブル崩壊後も、モンスター化した金融ビジネスは世界で暴れまくっている。
もともとは経済活動の潤滑油にすぎない金融だが、あたかも富を生み出しているかのような錯覚を世界に撒き散らしている。
そのひとつが、株主が企業の所有者ということで、株主利益の極大化のためには企業をズタズタに切り刻むのも厭わないといった最近の風潮である。
社会に富を生み出すはずの企業から現金を吸い上げれるだけ吸い上げて、後は捨てても構わないというのだ。
どう考えてもおかしい。 しかし金融ビジネスは、社会全体の富や幸せなど一顧だにしない。
最近はやりの、ESGなども行き過ぎた金融至上主義の反省というよりも、あまりの酷さを象徴しているにすぎない。
そういった金融の暴走にブレーキをかけるのは、長期投資と生活者株主が力をつけて、彼らに対するカウンター勢力になることだ。