いま日本で問われているのは、個人も企業もどういった道を歩んでいくかを、それぞれが決めるという認識を高めることだろう。
これまでは日本経済の高度成長もあり、またその余波でバブル崩壊後の27年間も、「みんな一緒に」でなんとかなってきた。
それが、どうやら通用しなくなってきている。 みんな一緒に豊かになっていき、落ちこぼれというものがほとんどない、そういった価値観が静かに崩れ出しているのだ。
よくよく考えてみるに、この「みんな一緒に」でやってこれた社会というのは、世界中を見渡しても極めて例外的である。 日本独自の幸せ感といえる。
たしかにこれまでは、個人も企業も皆が右肩上がりの三角形のどこかに乗っかっていられて、落ちこぼれというものがなかった。
あるとしたら、右肩上がりの三角形のどのあたりに居場所を見つけるかの違いだけ。 できれば三角形の上辺部にいたいが、下辺部にいてもそこそこやっていけるという安心感は絶大であった。
そういった日本独自の「みんな一緒に」の価値観が崩れ出したから、最近は格差だとかが社会問題視されるわけだ。
ところが、世界の常識からいうと、「みんな一緒に」なんてものは通用しない。 個人も企業もそれぞれの自助努力の結果として、社会における居場所を見つけていく。
誰もが自動的に乗っかれる右肩上がりの三角形なんてものは、そもそも存在しない。 自分の力量に応じた生き様や、社会での居場所を見つけていくしかない。
のし上がりたい人は、自分の才覚と努力で社会を伸し上がっていけばいい。 のんびりしたい人は、収入が低くてものんびりできる居場所に安住すればいい。
ところが、日本はいまだに国を挙げて「皆で一緒に」の生き方を求めようとしている。 働き方改革にしても、国があれこれ決めることではない。
個人も企業も、それぞれ自分に合った生き方を模索していく。 その成果も結果も、すべて自分のものという自覚を、皆が持つことだ。
そうしないと、なにもかも国がやってくれるという甘えと自立心の欠如が、ますますはびこることになる。
それはそのまま、あれこれ規制や指導をしたがる役所の自己増殖に直結し、国の借金を増やすだけである。
はっきりしているのは、そういった他力本願の馴れ合いは続かないということ。 国の財政が持たないし、日本人の活力を削いでしまう。
歴史をひも解くまでもなく、自助自立の精神にあふれた人々が国や地域を勃興させていく。 国民が働かなくなって栄えた国などない。